大河ドラマ おんな太閤記(たいこうき)
[お試し] 第29回 お茶々悲恋
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秀吉とねねが茶々と共に丹波亀山城に駆けつけると、秀勝はすでに息を引き取った後でした。主君・信長の四男であり、秀吉とねねにとっては愛おしくて大事な世継ぎしたが、18年の短い生涯を閉じます。茶々は冷たくなった秀勝にすがりついて離れようとしません。天正14年(1586)、利家とまつが娘・おまあを連れて関白就任の祝いに訪れます。秀吉はおまあを側室にしようと考えていました。
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本編
永禄3年(1560)5月、織田軍は桶狭間の合戦に勝利して清洲城下に凱旋します。浅野又右衛門の娘・ねねは父の安否を気づかって隊列の中に父を探します。すると、前田犬千代(利家)と木下藤吉郎(秀吉)が傷を負った又右衛門に付き添って現れました。ねねは藤吉郎に見初められますが、犬千代にひかれます。しかし、犬千代にはまつという妻がいました。ねねも次第に藤吉郎の温かい心にひかれていき、やがて祝言を挙げます。
ねねと藤吉郎との新婚生活が始まりました。藤吉郎は足軽組頭でしたが、持ち前の才能を発揮して、薪(まき)係、台所係を務めた後、足軽大将に取り立てられます。新しい屋敷を与えられ、隣の屋敷には前田犬千代とまつが住み親交も深まります。ねねは、体を使うことは苦になりませんが、藤吉郎の突拍子もない行動と貧乏には苦労します。ある日、藤吉郎は清洲城の塀(へい)を3日で修理すると信長に大見得を切ってしまいます。
ねねは、清洲城の塀が3日で修理できなければ藤吉郎の首が飛ぶと心配して、尾張の中村に藤吉郎の母・なかを訪ね、義弟・小一郎の協力を頼みます。なかは藤吉郎の無鉄砲な行いに怒りをぶつけますが、小一郎に、ねねのために清洲に行くことを許します。そして、ねねや小一郎の協力があって、塀は見事に完成します。藤吉郎はこの功績によって、信長から正式に武士の身分に取り立てられて、藤吉郎秀吉と名のることになります。
秀吉の仕事は敵国・美濃の調略です。秀吉は美濃の土豪・蜂須賀小六を織田方につくように説得します。小六は尾張の織田につくか、美濃の斎藤につくかを迷っていましたが、ねねが夫の秀吉を信じて必死に尽くす姿に心を打たれ、信長ではなく秀吉の家臣になる決心をします。信長の妹・お市は浅井長政に嫁ぐことが決まり、美濃攻めの地固めが整います。秀吉の次の仕事は、斎藤方の鵜沼城主・大沢基康を味方につけることです。
信長は、秀吉の申し入れで対面に訪れた鵜沼城主・大沢基康を斬るように命じます。そうなると、鵜沼城に残り人質になった秀吉の命が奪われます。ねねの願いが通じたのか、利家と柴田勝家が信長を説得して、基康の斬殺を思いとどまります。秀吉は人質から解放されると、長良川の対岸に墨俣(すのまた)城を築く総大将を引き受けます。敵を前面に迎え撃ちながらの危険な築城です。ねねは秀吉の身を案じながらも覚悟を決め励まします。
秀吉は小一郎や小六らと一夜で墨俣(すのまた)城を築き、城代として常駐します。隣家の利家とまつに第一子が生まれると、ねねも子どもを欲しくなりました。永禄10年(1567)8月、信長が美濃に総攻撃をかけると、秀吉の調略活動や前線部隊長としての活躍が功を奏し、稲葉山城は陥落。秀吉は信長から瓢箪(ひょうたん)の馬印を許されますが論功行賞はなく、気落ちします。しかし、ねねに励まされてやる気を取り戻します。
信長は念願の美濃を手に入れ、岐阜と改めます。秀吉はねねと岐阜へ移り、弟・小一郎に加えて、姉・ともの夫・弥助と妹・きいの夫・嘉助を家来にします。しかし、武士の生活が嫌いな母のなかは岐阜へは来ません。しばらくして、姉のともが長男・孫七郎(秀次)を産みます。ある日、将軍・足利義昭を美濃に迎えるための接待役に、ねねとまつに白羽の矢が立ちます。いよいよ、信長上洛(じょうらく)の日が近づいてきました。
信長は将軍・足利義昭を擁立して上洛(じょうらく)すると、秀吉は京で守護職として義昭を見張ります。ねねは岐阜で留守を預かり、利家とまつは国許の荒子(あらこ)城主になるため岐阜を去ります。信長は、義昭と通じて信長を狙う越前・朝倉義景を攻めると、浅井長政に嫁いだ妹・お市から両端を結んだ小豆袋が届きます。信長は長政の離反を察して退却を決めると、秀吉は全軍を安全に逃がすため殿(しんがり)を務めます。
浅井長政の寝返りで織田軍は退却し、殿(しんがり)の秀吉は消息不明です。ねねは心配な毎日を過ごします。義妹のきいも、夫の弥助や兄たちの身を案じて、尾張の中村から出てきました。まもなくして、秀吉が命からがら逃げ帰りました。しかし、信長は岐阜へ戻って体制を立て直して、1か月後には姉川の合戦で浅井・朝倉軍を打ち破ります。信長は引き続き、比叡山を焼き討ちにし、女子供を含めて大勢の人々を殺害します。
将軍・足利義昭は武田信玄らに書状を送り信長を討とうとしますが、信玄は病死してしまいます。信長は浅井・朝倉に総攻撃をかけると、秀吉は信長の命で小谷城を攻め、お市と3人の姫を無事に連れ帰りますが、浅井の嫡男・万福丸は小六に探し出されて殺されてしまいます。長政は自害して、ついに小谷城は陥落します。ねねは、家臣の小六が万福丸を殺したことで秀吉を責めますが、万福丸を助けたかった秀吉は肩を震わせて泣きます。
秀吉は近江平定の戦功で小谷城がある浅井の旧領を与えられて12万石の大名になり、羽柴越前守秀吉と名乗ります。弟の小一郎は羽柴秀長に名を改めます。ねねは城主の奥方になりますが、お市の恨みが残る小谷城への入城を拒みます。そのため、秀吉はねねのために今浜に城を築きます。ねねは義母のなかを訪ねて今浜へ誘いますが、なかは中村を動きません。帰り道、2人の少年が秀吉の家来になりたいとねねについてきます。
天正3年(1575)春、ねねは今浜城に入り、城主の妻としての生活を始めますが、たくさんの侍女に囲まれて戸惑います。秀吉は今浜を長浜と変え、長く栄える国にする夢を語ります。利家とまつも祝いに訪れ、次に娘が生まれたら秀吉とねねの養女にする約束をします。喜びもつかの間、秀吉の側室・千草と息子・秀勝も入城します。ねねは子どもの産めない妻は去るべきと秀長に言い残して城を出ると、そこに義母のなかが現われます。
秀吉は、母のなかが長浜城にやって来たので大喜びで迎えると、側室・千草と息子・秀勝のことでなかに突然しかられます。なかはねねに同情しながらも、息子・秀吉のため懸命に頭を下げるため、ねねは岐阜へ帰ることを思いとどまり、秀吉の世継ぎとして秀勝を慈しみ育てようと心に誓います。ある日、利家とまつが子供たちと一緒に訪ねて、以前交わした約束通り、産まれたお豪をねねと秀吉の養女として育ててほしいと言います。
ねねは、利家とまつの子・お豪を養女にして、小さな命を育てる喜びを味わいます。信長は嫡男・信忠に岐阜城を譲り、壮大な安土城を築きます。秀吉が多忙なため、代わりにねねが築城の祝賀に出向き、信長に秀吉の側室のことで愚痴を言ってしまい、気落ちします。ねねが元気なく長浜に戻ってまもなく、長男・秀勝は病に倒れて看病の甲斐もなく息を引き取ります。しばらくすると、安土の信長からねねを気遣う手紙が届きました。
長男・秀勝が死に、母親の千草は城を去ります。寂しい秋風が吹く長浜に、播磨調略を任された秀長から嫁にしたい女性を連れ帰るという手紙が届きます。その女性は、しのという足軽の娘です。ねねとなかは喜びますが、秀吉は秀長にふさわしくないと猛反対します。秀長は珍しく秀吉に抵抗しますが、しのは黙って長浜を去ります。一方、調略に応じた小寺(黒田)官兵衛の嫡男・松寿丸を人質として長浜城で預かることになりました。
秀吉は、信長の命で上杉謙信と戦う柴田勝家を援護するため越前に出兵しますが、勝家と衝突して信長の許しもなく兵を引き上げて長浜に戻ってしまいます。秀吉がなぜ信長の命に背いたのか、ねねには分かりませんでした。信長は秀吉を打ち首にすると激怒しますが、ちっ居処分で済みます。すると、秀吉は毎晩酒宴を開き、信長の側近に付け届けをして金を使い果たします。それは、信長に盾つく気などないと証明するためでした。
天正5年(1577)、秀吉は謀反を起こした松永久秀を滅ぼし、中国攻略を押し進めます。三木城主・別所長治が調略に応じ、秀長は三木城で侍女になっていたしのと再会します。その年の暮れ、信長はねねの内助の功をねぎらう宴席を設けて、秘蔵の乙御前(おとごぜ)の茶釜を秀吉に与え、茶会を開くことを許します。その宴席でねねは信長の四男・於次(おつぎ)丸と出会い、羽柴の跡継ぎにしたいと信長に願い出ます。
ねねは久しぶりに夫婦水入らずの正月を安土で過ごし、長浜へ戻ります。長浜では、羽柴家の嫡男に迎えた於次(おつぎ)丸、養女のお豪や姉の息子たち、そして、人質の松寿丸ら、子どもたちの声がにぎやかに響きます。ところが、別所長治、荒木村重が寝返り、秀吉は出陣します。黒田官兵衛は村重の説得から戻らず、秀吉は信長から官兵衛の嫡男・松寿丸を斬るように命じられますが、ねねの機転で松寿丸を隠してしまいます。
明智光秀は丹波の八上城を落とすため、母親を人質に差し出して和睦を申し入れますが、信長は八上城主をはりつけにしたため、光秀の元に母親の首が送られます。その後、荒木村重が落ち、黒田官兵衛が1年近い幽閉から救出されると、息子の松寿丸に会いたいと願い出ます。信長は動揺しますが、ねねの機転で生き延びた松寿丸が現れます。秀吉は兵糧攻めで三木城を落とします。城内では侍女のしのがなんとか生き残っていました。
秀吉は三木城を攻略して長浜に凱旋し、堺の豪商などを招いて茶会を催します。さらに、ねねは一族や家臣に別席を設けていました。それは、ねねとなかで考えた、秀長としのの祝言の席です。しのは三木城の兵糧攻めで失明していました。秀吉はしのの嫁入りを許さないと激怒しますが、ねねとなかに脅され言いくるめられて、2人の結婚を認めます。その後、秀吉は鳥取城を落とし、天正10年(1582)、備中高松城を水攻めにします。
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永禄3年(1560)5月、織田軍は桶狭間の合戦に勝利して清洲城下に凱旋します。浅野又右衛門の娘・ねねは父の安否を気づかって隊列の中に父を探します。すると、前田犬千代(利家)と木下藤吉郎(秀吉)が傷を負った又右衛門に付き添って現れました。ねねは藤吉郎に見初められますが、犬千代にひかれます。しかし、犬千代にはまつという妻がいました。ねねも次第に藤吉郎の温かい心にひかれていき、やがて祝言を挙げます。
ねねと藤吉郎との新婚生活が始まりました。藤吉郎は足軽組頭でしたが、持ち前の才能を発揮して、薪(まき)係、台所係を務めた後、足軽大将に取り立てられます。新しい屋敷を与えられ、隣の屋敷には前田犬千代とまつが住み親交も深まります。ねねは、体を使うことは苦になりませんが、藤吉郎の突拍子もない行動と貧乏には苦労します。ある日、藤吉郎は清洲城の塀(へい)を3日で修理すると信長に大見得を切ってしまいます。
ねねは、清洲城の塀が3日で修理できなければ藤吉郎の首が飛ぶと心配して、尾張の中村に藤吉郎の母・なかを訪ね、義弟・小一郎の協力を頼みます。なかは藤吉郎の無鉄砲な行いに怒りをぶつけますが、小一郎に、ねねのために清洲に行くことを許します。そして、ねねや小一郎の協力があって、塀は見事に完成します。藤吉郎はこの功績によって、信長から正式に武士の身分に取り立てられて、藤吉郎秀吉と名のることになります。
秀吉の仕事は敵国・美濃の調略です。秀吉は美濃の土豪・蜂須賀小六を織田方につくように説得します。小六は尾張の織田につくか、美濃の斎藤につくかを迷っていましたが、ねねが夫の秀吉を信じて必死に尽くす姿に心を打たれ、信長ではなく秀吉の家臣になる決心をします。信長の妹・お市は浅井長政に嫁ぐことが決まり、美濃攻めの地固めが整います。秀吉の次の仕事は、斎藤方の鵜沼城主・大沢基康を味方につけることです。
信長は、秀吉の申し入れで対面に訪れた鵜沼城主・大沢基康を斬るように命じます。そうなると、鵜沼城に残り人質になった秀吉の命が奪われます。ねねの願いが通じたのか、利家と柴田勝家が信長を説得して、基康の斬殺を思いとどまります。秀吉は人質から解放されると、長良川の対岸に墨俣(すのまた)城を築く総大将を引き受けます。敵を前面に迎え撃ちながらの危険な築城です。ねねは秀吉の身を案じながらも覚悟を決め励まします。
秀吉は小一郎や小六らと一夜で墨俣(すのまた)城を築き、城代として常駐します。隣家の利家とまつに第一子が生まれると、ねねも子どもを欲しくなりました。永禄10年(1567)8月、信長が美濃に総攻撃をかけると、秀吉の調略活動や前線部隊長としての活躍が功を奏し、稲葉山城は陥落。秀吉は信長から瓢箪(ひょうたん)の馬印を許されますが論功行賞はなく、気落ちします。しかし、ねねに励まされてやる気を取り戻します。
信長は念願の美濃を手に入れ、岐阜と改めます。秀吉はねねと岐阜へ移り、弟・小一郎に加えて、姉・ともの夫・弥助と妹・きいの夫・嘉助を家来にします。しかし、武士の生活が嫌いな母のなかは岐阜へは来ません。しばらくして、姉のともが長男・孫七郎(秀次)を産みます。ある日、将軍・足利義昭を美濃に迎えるための接待役に、ねねとまつに白羽の矢が立ちます。いよいよ、信長上洛(じょうらく)の日が近づいてきました。
信長は将軍・足利義昭を擁立して上洛(じょうらく)すると、秀吉は京で守護職として義昭を見張ります。ねねは岐阜で留守を預かり、利家とまつは国許の荒子(あらこ)城主になるため岐阜を去ります。信長は、義昭と通じて信長を狙う越前・朝倉義景を攻めると、浅井長政に嫁いだ妹・お市から両端を結んだ小豆袋が届きます。信長は長政の離反を察して退却を決めると、秀吉は全軍を安全に逃がすため殿(しんがり)を務めます。
浅井長政の寝返りで織田軍は退却し、殿(しんがり)の秀吉は消息不明です。ねねは心配な毎日を過ごします。義妹のきいも、夫の弥助や兄たちの身を案じて、尾張の中村から出てきました。まもなくして、秀吉が命からがら逃げ帰りました。しかし、信長は岐阜へ戻って体制を立て直して、1か月後には姉川の合戦で浅井・朝倉軍を打ち破ります。信長は引き続き、比叡山を焼き討ちにし、女子供を含めて大勢の人々を殺害します。
将軍・足利義昭は武田信玄らに書状を送り信長を討とうとしますが、信玄は病死してしまいます。信長は浅井・朝倉に総攻撃をかけると、秀吉は信長の命で小谷城を攻め、お市と3人の姫を無事に連れ帰りますが、浅井の嫡男・万福丸は小六に探し出されて殺されてしまいます。長政は自害して、ついに小谷城は陥落します。ねねは、家臣の小六が万福丸を殺したことで秀吉を責めますが、万福丸を助けたかった秀吉は肩を震わせて泣きます。
秀吉は近江平定の戦功で小谷城がある浅井の旧領を与えられて12万石の大名になり、羽柴越前守秀吉と名乗ります。弟の小一郎は羽柴秀長に名を改めます。ねねは城主の奥方になりますが、お市の恨みが残る小谷城への入城を拒みます。そのため、秀吉はねねのために今浜に城を築きます。ねねは義母のなかを訪ねて今浜へ誘いますが、なかは中村を動きません。帰り道、2人の少年が秀吉の家来になりたいとねねについてきます。
天正3年(1575)春、ねねは今浜城に入り、城主の妻としての生活を始めますが、たくさんの侍女に囲まれて戸惑います。秀吉は今浜を長浜と変え、長く栄える国にする夢を語ります。利家とまつも祝いに訪れ、次に娘が生まれたら秀吉とねねの養女にする約束をします。喜びもつかの間、秀吉の側室・千草と息子・秀勝も入城します。ねねは子どもの産めない妻は去るべきと秀長に言い残して城を出ると、そこに義母のなかが現われます。
秀吉は、母のなかが長浜城にやって来たので大喜びで迎えると、側室・千草と息子・秀勝のことでなかに突然しかられます。なかはねねに同情しながらも、息子・秀吉のため懸命に頭を下げるため、ねねは岐阜へ帰ることを思いとどまり、秀吉の世継ぎとして秀勝を慈しみ育てようと心に誓います。ある日、利家とまつが子供たちと一緒に訪ねて、以前交わした約束通り、産まれたお豪をねねと秀吉の養女として育ててほしいと言います。
ねねは、利家とまつの子・お豪を養女にして、小さな命を育てる喜びを味わいます。信長は嫡男・信忠に岐阜城を譲り、壮大な安土城を築きます。秀吉が多忙なため、代わりにねねが築城の祝賀に出向き、信長に秀吉の側室のことで愚痴を言ってしまい、気落ちします。ねねが元気なく長浜に戻ってまもなく、長男・秀勝は病に倒れて看病の甲斐もなく息を引き取ります。しばらくすると、安土の信長からねねを気遣う手紙が届きました。
長男・秀勝が死に、母親の千草は城を去ります。寂しい秋風が吹く長浜に、播磨調略を任された秀長から嫁にしたい女性を連れ帰るという手紙が届きます。その女性は、しのという足軽の娘です。ねねとなかは喜びますが、秀吉は秀長にふさわしくないと猛反対します。秀長は珍しく秀吉に抵抗しますが、しのは黙って長浜を去ります。一方、調略に応じた小寺(黒田)官兵衛の嫡男・松寿丸を人質として長浜城で預かることになりました。
秀吉は、信長の命で上杉謙信と戦う柴田勝家を援護するため越前に出兵しますが、勝家と衝突して信長の許しもなく兵を引き上げて長浜に戻ってしまいます。秀吉がなぜ信長の命に背いたのか、ねねには分かりませんでした。信長は秀吉を打ち首にすると激怒しますが、ちっ居処分で済みます。すると、秀吉は毎晩酒宴を開き、信長の側近に付け届けをして金を使い果たします。それは、信長に盾つく気などないと証明するためでした。
天正5年(1577)、秀吉は謀反を起こした松永久秀を滅ぼし、中国攻略を押し進めます。三木城主・別所長治が調略に応じ、秀長は三木城で侍女になっていたしのと再会します。その年の暮れ、信長はねねの内助の功をねぎらう宴席を設けて、秘蔵の乙御前(おとごぜ)の茶釜を秀吉に与え、茶会を開くことを許します。その宴席でねねは信長の四男・於次(おつぎ)丸と出会い、羽柴の跡継ぎにしたいと信長に願い出ます。
ねねは久しぶりに夫婦水入らずの正月を安土で過ごし、長浜へ戻ります。長浜では、羽柴家の嫡男に迎えた於次(おつぎ)丸、養女のお豪や姉の息子たち、そして、人質の松寿丸ら、子どもたちの声がにぎやかに響きます。ところが、別所長治、荒木村重が寝返り、秀吉は出陣します。黒田官兵衛は村重の説得から戻らず、秀吉は信長から官兵衛の嫡男・松寿丸を斬るように命じられますが、ねねの機転で松寿丸を隠してしまいます。
明智光秀は丹波の八上城を落とすため、母親を人質に差し出して和睦を申し入れますが、信長は八上城主をはりつけにしたため、光秀の元に母親の首が送られます。その後、荒木村重が落ち、黒田官兵衛が1年近い幽閉から救出されると、息子の松寿丸に会いたいと願い出ます。信長は動揺しますが、ねねの機転で生き延びた松寿丸が現れます。秀吉は兵糧攻めで三木城を落とします。城内では侍女のしのがなんとか生き残っていました。
秀吉は三木城を攻略して長浜に凱旋し、堺の豪商などを招いて茶会を催します。さらに、ねねは一族や家臣に別席を設けていました。それは、ねねとなかで考えた、秀長としのの祝言の席です。しのは三木城の兵糧攻めで失明していました。秀吉はしのの嫁入りを許さないと激怒しますが、ねねとなかに脅され言いくるめられて、2人の結婚を認めます。その後、秀吉は鳥取城を落とし、天正10年(1582)、備中高松城を水攻めにします。