「100分de名著」の「[お試し] ロジェ・カイヨワ“戦争論” 第2回「戦争の新たな次元“全体戦争”」」をフル動画で配信中!
第1次世界大戦以降、戦争は国民生活全体を巻き込み、産業は挙げて軍需工場や兵たん基地と化し、日常の私的な活動は国家によって制約され、情報管理とイデオロギー統制によって人間の内面すらも体制に組み込まれ、戦線は空間となって社会全体に浸透するようになった。この事態をカイヨワは「全体戦争」と呼んだ。第2回は、カイヨワが提示した「全体戦争」という概念を読み解く。
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本編
心とは「個々人が体の中にもつ秘密の小部屋」ではないというウィトゲンシュタイン。「心をもつ」ことを「演技・演劇ができるようになる」こととしてとらえ直す。それを踏まえると、心は「言語ゲーム」の中に息づくものと考えることができる。心は、他者とのコミュニケーションのただ中に立ち現れてくるものなのだ。第四回は「哲学探究」での議論を手がかりに、「心はどこにあるのか」「そもそも心とは何なのか」を問い直していく。
ディケンズの巧みな手法によって、現代人の私たちもまるで人気テレビドラマをみるように心を奪われる「大いなる遺産」。「階級社会の苦しみ」という当時の人々が直面し関心をもたざるを得なかったテーマがエンターテインメントとして織り込まれている。第一回は、テレビドラマ的ともいえるディケンズの手法に注目し、彼が「階級社会の問題」をどうとらえたか、それが当時も今もどんなインパクトを持ちうるのかを考える。
ピップは自らの能力や徳によって紳士へと成長するわけではない。転がり込んだ遺産という偶然、周囲の友人たちの善意によって階級上昇を果たすにすぎない。いわば「偽物の成長」だ。ピップは、深い愛情から彼に会いにきた義兄ジョーを邪険に扱うが逆に威厳を見せつけられたり、本物の上層階級に根深い嫉妬を抱かされたり…ピップは自らの「偽物感」に打ちのめされる。第二回は、逆説的に描かれる「真の成長」の意味を探っていく。
遺産を提供してくれた援助者の身代わりとして、ホモソーシャルな規範の中で紳士に育て上げられていくピップ。ミス・ハヴィシャムによって、憎むべき男たちへの復讐の道具として育てられたエステラ。両者の対比的な描写から、彼らの人生が「ジェンダーの暴力」によって歪められていることが浮き彫りになっていく。第三回は、ピップとエステラの人生を振り返ることで、真に主体的に人生を生きるには何が必要なのかを考える。
当初は自らの野望と欲望のままに紳士を目指したピップだったが、脱獄囚マグウィッチとの再会と彼の告白、育ての親ジョーによる献身的なケアに触れたピップは、厳しい競争社会の中で利他的に生きることの意味を知っていく。底辺の階級にいる彼らのほうが豊かに備えている矜持、愛情…。ピップは、競争社会に翻弄される中で見失っていた大切なものに気づくのだ。第四回は、後半の物語を「社会を拡張する物語」として読み解く。
「教行信証」では、「無量寿経」を根本経典として据えなおし、阿弥陀仏の本願の深い意義を掘り下げていく。そこで明らかになるのは、極悪人や権力者、凡愚の人も含めて、すべて仏が人間の姿をとって現れたものととらえた「権化の仁(ごんけのにん)」と呼ばれる親鸞の人間観。逆境の中で自らの信仰を深めてきたからこそ生まれた独自の思想である。第一回は、執筆背景を交え、親鸞が本書で示した独自の人間観に迫っていく。
阿弥陀仏の本願を信じるという初歩の行為ですら阿弥陀仏のはからいであるとする「絶対他力」の立場を打ち出す親鸞。常識はずれと思えるその思想は、私たちがいかに小さな自我にとらわれ、自分の都合でしか物事を見ていないかをあぶりだす。また「行巻」に収録される「正信偈」は我々がより大きな存在の中で生かされていることへの自覚を促す詩だ。第二回は、「他力思想」を通じて、「自分の都合」といかに向き合うかに迫っていく。
臨終時に唱える念仏によって往生するのではなく、阿弥陀仏の本願を信じて念仏を唱える決意した瞬間に往生が決まると捉える「現生正定衆」、浄土へ往生することが目的ではなく、浄土で菩薩となり再び現世へ戻り衆生を教化していくことが目的であるとする「還相回向」。いずれも親鸞による「実存的改読」であり、独自の思想として深化を遂げている。第三回は、現実を力強く受けとめ生き抜く思想として「教行信証」を読み解く。
親鸞は「自力」修行に励んだ結果、挫折し法然との出会いによって「他力」へと目覚めた自身の人生を反映させた「三願転入」という論を展開する。阿弥陀仏の誓願と自身の人生を重ねた論述は、闇深き弱者たちをも包摂する原理を阿弥陀仏の本願力に求めようとする親鸞の志向が読み取れる。第四回は、「教行信証」で展開される独特な救済原理を読み解き、現代人が陥っている分断社会をどう乗り越えていったらよいかを考えていく。
近代理性の限界を乗り越えるべくさまざまな模索を行った詩人ブルトン。全てを徹底的に破壊するダダイスムとの共闘と決別、仲間たちとの、理性の統御を一切解除した表現活動の実験…試行錯誤の中、ついにシュルレアリスムという新たなビジョンを得て、1924年そのマニフェスト「シュルレアリスム宣言」を刊行した。第一回は、ブルトンがどのようにして近代的理性の限界を乗り越え新たな表現を生み出していったかを明らかにする。
「理性や常識でがんじがらめな世界」と「無意識が自由に暴れまわっている世界」を結び合わせるシュルレアリスム。そのためには、私たちを縛っている理性の統御をいったん手放してしまうことが必要だ。理性による制御が効かないような高速度で言葉をつづっていく「自動記述」という方法を試みることで、この「超現実」を表現しようとする。それは、心の底や現実の奥に隠されていた本質を引き出そうとする試みでもあった。
本来あるべき場所や文脈から引き離し、異質なものや概念同士をわざと文脈の異なる場所に並置することで、強い違和感や不思議さを生み出す手法、デペイズマン(位置転換)。数々の作品に適用された画期的な手法だが、劇作家、画家、詩人らが自由に出入りし交流するために作られた「シュルレアリスム研究所」も「人間のデペイズマン」の場所といえる。ここでさまざまな化学反応が起こり、全く新しい芸術や文学が生まれたのである。
時代を代表する表現活動の各所にもシュルレアリスムの影響は数多く認められる。特撮作品「ウルトラマン」の怪獣をデザインした成田亨は、生命体と人工物のデペイズマンともいえる造形を追求。現代芸術ユニット「明和電機」は現実にはない工業製品「ナンセンスマシーン」を創作、シュルレアリスムからの影響を公言する。第四回は、アンドレ・ブルトンが現代にもたらした深い影響の数々を具体例を通して解説する。
26世紀のユートピア社会。誰もが幸福に生きているようにみえるが、そこには新しいものを生み出す活力は皆無だ。その社会は、アルゴリズムやSNSによるエコーチェンバーに翻弄される現代社会にどこか似ている。一見、便利で理想的にみえる社会に潜む矛盾とは何なのか? 第一回は、作品の中で実現されたユートピア社会の実態をつぶさに見ていくことで、完全に管理され安定した社会が果たして幸福をもたらすのかを考える。
かつての人類そのままに生活を営む「野蛮人居留地」。そこに住むジョンは、名著を愛読し人類が見失った自然な恋愛感情をもっていた。違和感をもちながら、次第にジョンの感性や感情にひかれるバーナード。彼は、ある思惑を胸に超管理社会へジョンを連れ出すことに。ジョンの存在は大きな波紋を巻き起こすのだった。第二回は、豊かな感性と感情を持ち続けるジョンの存在を通して、文明社会が捨て去ったものを見つめなおす。
ジョンはレーニナに対しシェイクスピアの言葉で感情を表現するが彼女は性愛でしか愛情を表現できない。超管理社会に住む人々とジョンとの対比は、言葉や価値観を共有できなくなるとき相互理解が成立しない事実をつきつける。一方で、自らの中に「問い」をもつことで、ジョンと意気投合できる理解者も現れるのだった。第三回は、ジョンを巡る人々の人間模様を通じて、SNS等によって分断される現代社会の問題を浮き彫りにする。
世界統制官との会見後、ジョンは、実験材料として超管理社会に留め置かれることになる。孤独な暮らしの中で自らを律するために自分の身体に鞭打ちを始めるが、そのこと自体が見世物となり観客が殺到。管理社会の中で刷り込まれた習性により、人々は暴力の連鎖に巻き込まれていくのだった。ジョンが最後にとった行動とは? 第四回は、この物語を反面教師として、どんな社会や制度を理想として思い描くべきかを深く考える。