『大河ドラマ 葵 徳川三代』の動画一覧

本編

(41)「御対面」

(41)「御対面」

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寛永2年(1625)10月、徳川家光(尾上辰之助)が高熱を発し倒れる。病の床で家光は、秀忠(西田敏行)に御落胤(ごらくいん)があることを問いただす。秀忠は、もう一人の弟・幸松の存在を打ち明ける。家光は幸松を呼び戻してほしいと訴える。
(42)「二条城行幸」

(42)「二条城行幸」

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寛永3年(1626)2月、天海大僧正(金田龍之介)は、二条城に行幸あらば徳川家光(尾上辰之助)の面目は十分にたつと賛同する。家光に恥をかかせられない秀忠(西田敏行)は、伊達政宗(すまけい)を宮中に送り談判を命じる。
(43)「女の一生」

(43)「女の一生」

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寛永3年(1826)9月、徳川幕府がその名誉をかけて行った後水尾天皇の行幸が無事終了、ほっとする秀忠(西田敏行)のもとに、お江(岩下志麻)危篤のしらせが入る。京を離れることができない秀忠は、次男の忠長(高杉瑞穂)を遣わす。9月15日未明、お江の容体が急変する。
(44)「皇子降誕」

(44)「皇子降誕」

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寛永3年(1626)11月13日、中宮和子が皇子・高仁親王を出産。翌年4月、天皇が高仁親王に譲位の内旨(ないし)を下したとの勅使がある。生後4か月の親王に譲位とは合点がいかないと、徳川秀忠(西田敏行)は朝廷の真意を突きとめよと命じる。7月、幕府は宮中に一石を投じる。元和元年以降の紫衣(しえ・僧侶の最高位を表す紫の衣)の勅許を無効とする。
(45)「春日局」

(45)「春日局」

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寛永5年(1628)8月、天皇は天子の位を女一宮に譲ると決める。徳川秀忠(西田敏行)は、女帝を絶対に認めてはならないと朝廷にはね返す。9月、和子が秀忠待望の第二皇子を出産。が、喜びもつかの間皇子は生後10日であえなく逝去する。寛永6年8月、家光(尾上辰之助)は宮中の様子を探らせるため、自分の名代としてお福(樹木希林)に上洛を命じる。
(46)「女帝即位」

(46)「女帝即位」

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寛永6年(1629)11月、天皇は中宮和子(酒井美紀)に本日皇位を退いたと告げる。和子は天皇退位を江戸に急報する。幕臣たちは大騒ぎするが、徳川秀忠(西田敏行)は黙殺することを決める。寛永7年2月、「今年9月に宮中にて即位の大礼を行う」というしらせが入る。秀忠は、「幕府の同意なくして即位式ができるか」とこれも黙殺する。
(47)「三兄弟」

(47)「三兄弟」

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寛永8年(1631)2月、徳川家光(尾上辰之助)はついに忠長(高杉瑞穂)の登城を差し止める。事態を重く見た秀忠(西田敏行)は、事の始末は自分がつけると申し出る。忠長は水戸家や姉の千姫(大河内奈々子)に仲裁を願うが、これが家光の怒りをさらにかい、甲斐国に蟄居(ちっきょ)謹慎させられる。6月、体調不良が続いていた秀忠が重病の床につく。12月、秀忠は侍女のお振が家光の子を懐妊したと聞き喜ぶ。
(48)「さらば秀忠」

(48)「さらば秀忠」

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寛永9年(1632)正月、徳川秀忠(西田敏行)への諸大名年賀拝礼は差し止めに。秀忠は義直、頼宣、頼房に、兄の家光(尾上辰之助)の後見を託す。そして「朝廷に対し武をもって文を犯すことは国のためにならない、分をわきまえ無益な争いを起こさぬことに力を尽くせ」と遺言する。1月23日、秀忠は重体をおし家光を呼び、一目生まれてくる家光の子を見たかったとつぶやく。翌24日、秀忠は54年の波乱の人生に幕を閉じる。
(49)「名君づくり」

(49)「名君づくり」

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謹慎中の徳川忠長は、無断で甲斐府中に台徳院殿(秀忠)供養の寺を建立。家光(尾上辰之助)はこれに怒り、忠長の所領である駿河・遠江・甲斐65万石を没収、改易して上野国高崎に配流する。幕府は秀忠亡き後、諸大名を取り締まる大目付を設置するほか、巡見使を諸国に派遣して支配体制を強化していった。寛永10年(1633)12月、高崎城内に幽閉されていた忠長が自害。忠長の行く末を案じていた家光は悲しみに涙する。