「100分de名著」の「[お試し] 司馬遼太郎スペシャル 第2回「“幕末”に学ぶリーダーの条件」」をフル動画で配信中!
村の医師から始まり、時代からみいられたように官軍の総司令官、ついには明治政府の兵部大輔にまでのぼりつめた大村益次郎の生き方から理想のリーダーの在り方を読み解く。 ※司馬遼太郎の「遼」の字は、本来、「しんにょうの点がふたつ」です。
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本編
良寛は晩年、老いや病に苦しめられた。彼の漢詩や和歌には、その克明な状況すら描かれている。そこには、全てを言葉で表現し尽くすことで、「老い」や「病」「死」と対峙(じ)し、それを人生修行の場としようという良寛の強靭(じん)な精神がみえてくる。良寛の表現活動を通して、「老い」や「病」「死」との向き合い方を学ぶ。
2016年はリオでオリンピックが開催されるオリンピックイヤー。実は近代オリンピックの創始者クーベルタン男爵が「オリンピック開催中は戦争を休戦して大会に参加せよ」との理念を掲げたという事実は意外に知られていない。そこで「100分de名著」では、オリンピックイヤーにちなみ、さまざまな分野の専門家がスタジオに集まって「自分がおすすめする平和論」の名著を紹介し徹底的に討論する。
「代表的日本人」の冒頭に登場する西郷隆盛。明治維新の立役者として知られるが、実は徹底して「待つ人」だった。真に必要に迫られなければ自ら動かない。しかし一度内心からの促しを感じたなら、ちゅうちょすることなく決断し動く。それこそが西郷という人物の神髄だった。それは、折にふれて「自己をはるかに超えた存在」と魂の会話を続け、そこに照らして自らの生き方を問い続けた「敬天愛人」という信条から発するものだった。
「代表的日本人」には、試練を好機ととらえることで、偉大な改革を成し遂げた日本人が描かれている。米沢藩主・上杉鷹山と農民聖者・二宮尊徳だ。彼らはどんなすさんだ民の心にも誠意をもって向き合い、道徳的な力を引き出そうとした。その結果、途方もない公共事業を次々と成し遂げていった。第2回は、上杉鷹山と二宮尊徳の生き方を通して、試練を好機に変えていく「誠意」の大事さを学んでいく。
「考えること」「信じること」というそれぞれの方法でゆるぎない信念を貫き通した儒学者・中江藤樹と仏教者・日蓮。中江藤樹は「道は永遠から生ず」との信念を生涯つらぬいた。一方、日蓮は「法華経」を生涯の座標軸に据え、いかなる権力の脅しにも屈せず、死罪、流罪をも精神の力ではねのけた。第3回は中江藤樹と日蓮の生き方から真摯(しんし)に考えぬき真摯に信じぬいたからこそ得られる「ゆるぎない座標軸」の大切さを学ぶ。
「人がどう生きたか」こそが人から人へと伝えられるものであり、それが魂のリレーとなっていく…「代表的日本人」は、講演「後世への最大遺物」と通じあっており、一緒に読み解いていくとその本質がわかっていく。内村にとって生きるとは「後世」に生まれる未知の他者が歩く道を準備することだった。逆に私たちは、何を受け継ごうかと考えて世界を見るとき、はじめて自身に準備されている「遺物」の豊かさに気づくことができる。
客観的な世界などなくすべて色眼鏡を通してしかみることはできないという「認知論」。トラウマや過去に支配されているという「原因論」は誤りで、人間は目的を変え過去を意味づけ直すことで人生を変えることができるという「目的論」。「性格」を柔軟なものと捉え、いつでも選び直せると考える「ライフスタイル論」。アドラーの思想はいつでも「この瞬間」から人生を変えることができるというポジティブな人間観に貫かれている。
私たちを悩ます「自分で自分を好きになれない」という劣等感。アドラーは、その状況が、「自分で自分を好きにならないよう」決心している結果だと分析する。その上で、劣等感を「客観的な事実」ではなく、他者との比較から生じる「主観的な解釈」だととらえて、その解釈自体を転換し、むしろ自分自身の成長のバネにしていくことを提唱するのだ。
私たちは他者に認められたいという「承認欲求」を常にもっている。しかし、アドラーは「他者から承認を求めることを否定せよ」と説く。他者の期待を満たすために生きてしまったら、本当の自分を捨てて他者の人生を生きることになるからだ。「承認欲求」から解放される要はアドラーが提唱する「課題の分離」。それができたとき、対人関係は驚くほどシンプルになり、無駄な競争から解放され、各人が対等な関係を築けるという。
アドラーがゴールと考えた幸福とは何か? それは「共同体感覚」という概念に象徴される。「共同体感覚」は、他者を仲間と見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられること。そのためには「自己への執着」を「他者への関心」に切り替える必要があるという。その条件としてアドラーが挙げるのは「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」。それを実現するためにアドラーは、自己と他者を常に勇気づけていくよう呼びかける。
「国盗り物語」では、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康という傑出した才能が活躍する。その姿から司馬の「日本人観」や時代を動かす「変革力」を読み解いていく。 ※司馬遼太郎の「遼」の字は、本来、「しんにょうの点がふたつ」です。
村の医師から始まり、時代からみいられたように官軍の総司令官、ついには明治政府の兵部大輔にまでのぼりつめた大村益次郎の生き方から理想のリーダーの在り方を読み解く。 ※司馬遼太郎の「遼」の字は、本来、「しんにょうの点がふたつ」です。
短期間のうちに国民国家の土台を築いた世界にも稀(まれ)な革命「明治維新」。そこに生まれた「明治国家」は江戸260年の精神遺産だったという司馬の歴史観を読み解く。 ※司馬遼太郎の「遼」の字は、本来、「しんにょうの点がふたつ」です。
司馬は日本が戦争への道を歩んだ昭和初期を「鬼胎の時代」と名づけ、その正体を見定めようとした。歴史の大きな転換期の在り方を「この国のかたち」から読み解く。 ※司馬遼太郎の「遼」の字は、本来、「しんにょうの点がふたつ」です。
その革新性故に誤解が絶えなかった親鸞の思想。異議をとなえる門弟たちに、親鸞は「念仏が浄土に生まれる種なのか地獄へ落ちる所業なのか私は知らない」と冷徹にいい放つ。そこには、自分の都合で教えの意味をゆがめ、自身の中にある「影」の部分を見つめようとしない人々への嘆きがあった。親鸞は、死後に救われるかどうかといった利己的な目的ではなく、己の罪深さを徹底して見つめぬく中にこそ真の信仰が開かれると考えたのだ。
「歎異抄」の中で最も有名な一節「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」。そこには「仏の目からみれば全てが悪人であるのに、自分自身は善人であると思っている傲慢さはどうなのか」という親鸞の問いがある。また一般的な社会通念では決して救われない人々に対して、全く異なるものさしを提示することで社会の底辺に置かれている人々が救われる原理を追求したのだ。「他力」「悪人正機」の深い意味を読み解く。
唯円は、常識的な社会通念から親鸞の教えをゆがめ自分の都合のよいように解釈する人々の異義に、一つ一つ反論していく。そこにあるのは、何をするにも自分を軸としてしか行動できない、全てに対して自分というフィルターを通してしか考えられない、かなしい人間のさが。「歎異抄」には、そうした「自己の偽物性」から抜け出し、迷いと救いの間で宙づりになりながらも、それをあるがままに受け止めていく生き方が示されている。
人間がもつ「光」と「闇」の間で苦悩し続けた親鸞を支えていたのが「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとへに、親鸞一人がためなり」との確信だった。あまりにも有名な親鸞のこの言葉を深く読み解いていくと、我が身一身でこの教えを引き受け、その切実さを生き切ろうという親鸞の実存的な決断がみえてくる。親鸞の信仰人としての生きざまを通して、「人間にとって宗教とは何か」を考えていく。
兵法が剣術だけでなく世間のあらゆることに通じると説く「地の巻」。そこで展開された、大将と士卒を大工の棟りょうと弟子の関係にたとえて説くリーダー論は、一般社会にも適用できる。また、戦場におけるさまざまな武器の長所短所、物事の「拍子」(リズム、機)を知ることの重要性、道を学ぶ者が知るべき9か条の心得など現代の私たちにも通じるような心構えを論じている。「五輪書」から全てに通じる「兵法の道」の基本を学ぶ。
入れる器に従って変化し、1滴にもなり大海ともなる「水」。そのイメージによって剣術の基礎を説く「水の巻」。隙のない自然体で、どんな状況下でも、緊張することなく心を静かにゆるがせ一瞬も滞らせず、状況全体と細部を「観・見」二つの目で偏りなくみる。まさに「水」にならって、身体と心を日常から鍛え上げていく方法を武蔵は克明に記述している。第2回は「自己鍛錬の方法」「専門の道を極める方法」を学んでいく。
PV
ドリトル先生が解読した暗号は、洞窟に閉じ込められたロング・アローからの救援を求めるメッセージ。チーム力を駆使し無事彼を救出する。アローは何の教育も受けていないが彼一流の方法で自然を研究する偉大な博物学者(ナチュラリスト)だった。ドリトル先生は、その姿に限りない尊敬の念を表し、その姿勢から学ぶのだった。第三回は、ナチュラリストとはどんな存在なのか、その知的姿勢から学べることを明らかにしてく。
戦争終結に際しドリトル先生が起草した講和条約には互いの尊厳を保証する公平精神が貫かれていた。その結果、島民全体の尊敬を集めた彼は王様にさせられる。日々島民たちのための施策を行う義務に追われるドリトル先生は、博物学者としての仕事を再開したいというやむにやまれぬ思いとの葛藤に悩む。最後にドリトル先生が下した決断とは? 第四回は、どんな時にも軽やかに生きることを忘れないドリトル先生の生き方に学ぶ。
日本文学研究者のピーター・マクミランさんは、「百人一首」が海外でも人気な秘密が世界中のどの国にいても通じる高度な「普遍性」にあるという。「由良の門を渡る舟人梶を絶え行方も知らぬ恋の道かな」。ゆれる恋心を舵を失って方向が定まらない船にたとえる鮮烈な視覚性や感情の共通性。そこには人間なら誰しも揺さぶられる巧さがある。第一回は、「百人一首」に収められた秀歌のもつ、国境を超えた普遍性に迫っていく。
日本人でも理解にとまどう「百人一首」に駆使された技巧を外国人ならではの視点で易しく解きほぐすマクミランさん。限られた制限の中で、これらの技巧が限りない表現の可能性を開いていくという。もう一つの特徴は「はかなさ」。西欧の美的感受性が永遠性・無時間性を重視するのに対し、日本のそれは人生のはかなさ脆(もろ)さに美の本質を見いだそうとする。第二回は「技巧」の意味と「はかなさ」をとらえる美意識に迫っていく。
「百人一首」に収められた和歌を、あの有名な松尾芭蕉が巧みなリメイクを行っている。「うかりける」を「うけれける」に置き換えることで、花見にうかれる人々を描くユーモラスな和歌に転換。また美術の領域でも葛飾北斎が、恋愛に使う「みをつくす」という言葉を肉体労働に読み替えて、荷物を押す人夫を描くユニークな版画に仕上げている。第三回は、リメイクされた「百人一首」の意外な魅力を明らかにしていく。
ピーター・マクミランさんは、国を超えて普遍的に通じるような翻訳にもチャレンジしている。また、現代の若者たちにも親しんでもらえるよう、和歌で使われる言葉を現代の風物や文化に置き換えた「超訳」にも挑戦、「百人一首」の新しい楽しみ方を提案している。時空を超えて多くの人たちをひきつける「百人一首」の普遍性とは?第四回は、異文化からの視点を通して、時代や国境を超えて広がりゆく「百人一首」の魅力に迫っていく。
主人公・加恵を待っていたのは真綿で首を絞められるような、姑・於継からの嫉視や敵愾心だった。世界初の麻酔薬開発に向けて無垢な情熱を燃やす夫・華岡青洲には、そんな状況はまるで見えていない。嫁姑の苛烈な相克は何から生じ、なぜ泥沼へと向かっていくのか。第一回は、封建制が敷かれた時代の末期、「家」のしがらみにとらわれた女性たちの苦悩にフォーカスし、「個」と「家」の相克の問題を見つめていく。
認知症が悪化し続ける茂造に対して、うろたえるだけで何もできない息子・信利、ドライに状況を見つめる孫・敏。茂造の介護は一人、信利の妻・昭子が担うことになる。家族の状況は、茂造の存在によって大きく変わっていくのだった。第二回は、家族が認知症になった時、それ以外の家族とその人生はどのように変容するのか、そして彼らが直面する苦悩とはどんなものかを作品から読み解いていく。
必死に介護を続ける昭子は、一輪の花に心を奪われる茂造の姿に触れ老いてなお輝く人間の尊厳に思い至る。最後まで介護をやり通す決意をする昭子の姿に、孫・敏も、茂造に対する態度を少しずつ変えていき、家族全体にも少しずつ変化が。最後に訪れる家族の心境とは? 第三回は、「恍惚の人」の後半を読み解くことで、「老い」の中に確かに存在する尊厳、それを支えるべき社会制度の在り方を問い直す。
「青い壺」は、2011年に新装版が復刊されるや口コミで評判になり異例のベストセラーになった。その秘密は、どのエピソードにも「リアルな人生の皮肉」を描くところにある。幸せが驕(おご)りや怠慢などによって不幸せに転化し、不幸せだと思って引き受けたものが幸福をもたらしたりもする。第四回は、作家の原田ひ香さんをゲストに招き、一筋縄ではいかない人生を深い味わいで描いていく有吉作品の魅力に迫っていく。
震災当日から刻一刻と変化する状況を自らの心情とともに克明に刻んでいく安克昌の筆致はドキュメンタリー映画をみているように生々しく胸に迫る。震災体験のすさまじさ、そして救助するのも被災者であるという厳粛な事実。描写のはざまから苦痛や深い悲しみがあふれ出て読むものを揺さぶる。第一回は、震災直後の記述を中心に読み解き、「震災直後に何が起こったのか」「そのとき何が一番求められていたのか」を深く考察する。
PTSDに苦しめられるJさん、子を失った親、親を失った子たちの深い喪失感、救護に当たった医師や看護師たちの不安やストレス等々に向き合っていく安克昌。彼らにどのようなサポートが必要なのかをありとあらゆる知を動員して考えぬき、対応のためのアイデアが記されていく。第二回は、安克昌が見つめた、個々の心の傷のありようを一つひとつ確かめながら、今後、生かすべき教訓を学んでいく。
安克昌は、自ら積極的に避難所へ出向くことにした。状況を知悉した、避難所へ派遣された看護師たちと連携することで、被災者たちの深刻な状況に目を開かれた安は、どのようなサポートやシステムが必要なのかを深く思索していく。第三回は、安の実践や考察を通して、震災直後やその後継続的に行うべきサポートのあり方について考えていく。
安克昌「心の傷を癒すということ」は彼の死後、多くの関係者の証言を加えた増補版としてその後も成長を続けドラマや映画という二次創作へとつながっていく。宮地尚子さんは、こうした試みを、心の傷を表現に昇華し将来への豊かな土壌を準備するという意味で「耕す」という言葉で表現する。震災体験は「耕され」、後々の人々の心を支える培地となっていくのだ。第四回は、震災体験や心の傷を耕していくとはどういうことかを考える。
これまでアイデンティティの基盤としてきた職場、家族、学校といった社会集団に帰属意識をもたなくなってきた私たち。個性や多様性を謳歌(おうか)する一方で、他者とのつながりを失って孤立し、他者に頼らずあらゆるリスクを自己責任ととらえる風潮が広がっている。この状況は、19世紀ヨーロッパの状況と重なる。第一回は、「個性の違い」と「多様性」を認め合いながらも、一緒に共生できる社会とはどんなものかを考える。
近代化に伴う社会の拡大とともに、社会を結び合わせていた集合意識がほころび、個人の行動を規定することが困難となる。その結果、個人の自由は拡大するが、一方で、人々は生きる指針を失い、互いに疎遠になってしまう。急激な社会変動によって生まれた道徳の空白にどう向き合ったらいいのか? 第二回は、近代社会において「自律的個人」が生み出されたメカニズムに迫るととともに、それがもたらした道徳的な問題を考察する。
近代化に伴い個人は相互依存の網の目に参入。「社会的分業」によって人々は結びつけられるのだ。デュルケームはそれを「有機的連帯」と呼び、一つの理想状態として提示。だが、現実には、そう簡単にうまくいかない。適切な規制がないことや時代にそぐわない規制が邪魔することで、経済恐慌や労使対立、労働者の活力低下などさまざまな問題が引き起こされる。第三回は個人がばらばらにならずに連帯していくには何が必要かを考える。
個人化や個人主義の発展から目をそらさずに歴史的な必然ととらえる「賢明な保守的精神」をもつべきだというデュルケーム。その上で、国家と個人の間に「職業集団」「同業組合」のような中間集団を再建することによって、健全な道徳的規制を育てていくことができるという。彼は一貫して「自律的な個人」を社会に包摂し連帯させていく条件を追求し続けたのだ。第四回は、社会の問題解決の糸口になるような処方箋があるのかを考える。
猫の捜索をきっかけにトオルは次々に奇妙な人物たちと出会う。過去の事件にトラウマを持つ女子高生・笠原メイ、特殊能力を持つ加納マルタとその妹クレタ、国際紛争の地ノモンハンでの悲惨な体験を語る間宮中尉…トオルに突如として非日常的な時空が立ち現れるのだった。第一回は、作品の執筆背景にも触れながら、村上春樹が描き出す登場人物や舞台装置を通して、私たちの日常のすぐ隣にある深い闇の存在について深く考察する。
トオルは、近隣の空き家にある井戸の底での不思議な出来事などさまざまな事件を通じて、いかに自分がクミコのことを何一つ知らないかを思い知らされていく。そんな中、クミコから届いた手紙には「もう探さないでほしい」との文面が…。いったい、クミコに何があったのか。第二回は、かけがえないものを失ってはじめて得ることができた主人公の気づきを通して、私たちが大切な存在とどう向き合っていけばよいかについて問い直す。